〜千年の時空をチャリで超えて〜宇治を走る!

 

あげまきに 長き契りを 結びこめ 同じところに よりもあはらん 源氏物語第四十七帖・総角(あげまき)

 

長建寺〜源氏物語ミュージアム〜世界文化遺産・宇治上神社〜大吉山〜朝日山〜志津川など源氏物語の街・宇治を走る

〜千年の時空を超えて〜源氏物語の街・宇治

平安貴族にとって、宇治は別業(べつごう=別荘)の地でした。舟遊びや紅葉狩りなど遊興の地であると共に、魂の安らぐ宗教的な地でもありました。宗教的な面が強かったのは、平安時代中ごろに栄華の頂点を極めた、藤原氏の墓地があったためです。多くの別業では、貴族たちが御堂(みどう=持仏堂/自分の守り本尊を安置するお堂)にこもり、仏に祈るといった時間を持ちました。また『源氏物語』が執筆されたと考えられる年代よりも後になりますが、世界文化遺産である平等院も藤原頼通(よりみち)が父・道長(みちなが)から譲り受けた別業を寺院に改めたものです。和歌においても宇治は「宇治=憂(う)し」の掛詞(かけことば)として、古くからひんぱんに用いられてきました。このように、宇治は平安貴族にとって身近な土地でした。こうした背景の元、宇治は『源氏物語』最後の舞台として選ばれたと考えられます。「橋姫」で始まり「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」では、「京から宇治へ」、「光源氏からその子・薫へ」と時空が移ることを「橋」で暗示し、「華やかさと静けさ」、「此岸(しがん)と彼岸」など宇治の持つ対照的な要素も加えることで、物語が「春から秋」、「昼から夜」の世界へと転じていくことを表したと言えるでしょう。

坂本龍馬、お龍ゆかりの寺田屋 地図 柳が美しい宇治川派流 朝ドラ・カーネーションでロケされていた酒蔵
長建寺 地図

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は、"伏見の弁天祭"と言われています。境内には伏見七名水の閼伽(あか)水が湧き出ています。

ええ感じや〜(*^-^*) 弁天橋十石舟乗船場 島の弁天さん・長建寺
境内の緑が美しい!(*゜▽゜)/ 伏見名水・閼伽水 参拝しました・・・
建部政宇奉納した弁天型灯籠 高浜虚子の中書島歌碑 宇治川派流
・・・ 夜のウォーキングの時に毎回、参拝している八千代大明神
おきつねさんと地蔵祠 近鉄京都線・澱川橋梁(有形文化財:昭和期) 京阪宇治線
観月橋 宇治川右岸堤防 宇治川・山科川合流地
山科川右岸堤防 ・・・ 先月のゲリラ豪雨でこの辺も水没しました・・
巨椋池の名残と伝える木幡池 地図

京都府宇治市北部に位置する市内最大の池です。池には2つの橋が架けられており、橋を境に北池・中池・南池の3つに隔てられてい ます。北池は堂ノ川に注いでおり、水鳥の姿はほと んど見られませんが、中池と南池には多くの鳥が住 み着いたり渡来したりしています。かつて、巨椋池という大池があり ました。3つの河川合流地点にあり、現在の木幡池 もその中に含まれていました。しかし、昭和8年(1933年)に干拓され、広大な干拓田が形成 されました。その名残として唯一残っているのが、木幡池です。

昔、宇治川(巨椋池)東端に位置した木幡池・・・8/14のゲリラ豪雨でこの辺り一帯が洪水になりました。
旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫/現 陸上自衛隊宇治駐屯地)まで続く引込み線跡 芙蓉の花
堂承川の水が溢れると木幡池に流れ込むように堰が作られているので川から溢れた水は木幡池に流れ込みます・・・。
木幡池は巨椋池同様、洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池です。今回は洪水を引き起こしてしまいました・・・
先月の宇治の水害の元凶となった天井川の弥陀次郎川・・普段は排水溝のような浅い水位で穏やかだけど、天井川が決壊したら最悪。
一ヶ月が過ぎ、何事もなかったように片付けられましたが、まだまだ水害の痕跡が・・・ 平穏時の天井川・弥陀次郎川
この穏やかで小さな弥陀次郎川がゲリラ豪雨によって大水害を引き起こしました。 橋の部分の線路の枕木が新しくなっています・・
西方寺(弥陀次郎:みだじろう)

無量山と号する浄土宗知恩院派の寺で俗に「弥陀次郎」と呼ばれます。「山州名跡跡志/巻15」によれば、むかし、淀の漁夫に悪次郎と称され大変に嫌われた男がいましたが、ある時に淀川々中より一体の阿弥陀像を感得した事から仏心をおこし出家し世の人々から「弥陀次郎」と賞賛されたと伝わります。当寺は寛永年間の再興で「弥陀次郎」伝説は江戸時代に大いに流布し付近を流れる川を弥陀次郎川と言います。関白・近衛兼基(かねつね)の墓所が二子塚古墳の前方部(西方寺庭園背後)にあり墓石は笠塔婆形の石塔を墓石にしています。

西方寺(弥陀次郎:みだじろう) 黄檗へ・・・ 京阪宇治線
キララくんにラブ(エアー)注入!(*゜▽゜)/ 京阪・黄檗駅 黄檗新生市場
新生市場はアーケードや店舗数など、かつてはかなり繁栄していた事が推測できます。・・あれっ、ケーキ屋さんも閉店されたのかな・・
黄檗新生市場は年配の店主さんが、がんばっておられます。 宝蔵院(墓参り)
宝地蔵が出迎えてくれます!(*^-^*) 鉄眼一切経収蔵庫 宝蔵院の甍
宝蔵院開山塔 霊園からの俯瞰・・遠くの稜線は生駒山かな
駒の蹄影(あしかげ)園碑

昔、宇治の里人が茶樹を植える距離が分からず栂尾(とがお)の明恵上人に教えを乞うた時、上人が馬に乗り畑地を駆け巡りその蹄跡に茶樹を植える様にと教えました。当碑は同上人への感謝と功績を讃えて建てられました。

亀石くん 黄檗宗大本山・萬福寺 駒の蹄影園碑
栄養補給中!(*´ο`*)=3ホッ 京滋バイパス・・この場所も水没しました。 戦川、今回の水害はこんな小川が決壊した!
源氏物語ミュージアム〜千年の時空を超えて〜源氏物語の世界を実体験 地図

観光客や市民に楽しみながら 平安文化を理解してもらおうというもので、 特に全国の源氏フアンにとっては見逃せない施設です。 館内では、模型や映像により光源氏や「宇治十帖」の世界を 分かりやすく紹介するほか、源氏物語に関する文献、史料、小説などの ライブラリー機能を持ち、コンピュータに承る情報交換もできます。

・・・ 源氏物語ミュージアム グリーンシャワーが心地よい!(*´ο`*)=3ホッ
源氏物語ミュージアム 来館は去年来の二度目・・去年、橋姫の短編映画を見て源氏物語にはまるキッカケになった。
源氏物語に関する資料の展示されている。 藤原道長が龍頭船を謁見している絵
『源氏物語』絵巻 『源氏物語』絵巻と紫式部 宇治十帖の舞台「別業(べつごう)の里・宇治」
華やかな王朝絵巻を象徴する牛車(ぎっしゃ) 寝殿造の中に平安貴族の装束や調度品を展示
平安貴族の装束・・透明人間?(^▽^;) ええ感じや〜(*^-^*) 宇治の架け橋
第四十五帖・橋姫(はしひめ) 第四十六帖・椎本(しいがもと) 第四十七帖・総角(あげまき)

橋姫の 心を汲みて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞぬれぬる・・・光源氏の異母弟である八の宮は勢力争いに巻込まれた後、零落し、京邸が焼失したのをきっかけに宇治の山荘に移り住む。そして宇治山の阿闍梨(あじゃり)を師と仰ぎ、俗聖(ぞくひじり)としての生活を送っていました。
その頃、光源氏の御子である薫は、自分の出生に疑問を抱いた。仏門への帰依を望んでいた薫は、阿闍梨から話に聞いていた八の宮を慕い、宇治に通うようになる。
ある日、薫が宇治を訪ねると山荘から琵琶と琴の音が聞こえてきた。川霧の中、山荘を垣間見ると、二人の美しい姫君の姿が目に入ります。姉の大君(おおいきみ)と妹の中君(なかのきみ)でした。都に帰った薫は、光源氏の孫で皇子でもある匂宮(におうのみや)に宇治の姫君たちの話をします。
再び、宇治を訪れた薫は、山荘に仕える老女房から、自分が柏木と女三宮(おんなさんのみや)との間に生まれた不義の子であるという出生の秘密を知らされる。

立ち寄らん 蔭と頼みし 椎が下 むなしき床(とこ)に なりにけるかな・・・匂宮は初瀬(はつせ)詣での帰り、薫から聞いていた姫君たちのことも気になっていたので、たくさんのお供とともに宇治の別荘に泊まりました。薫も宇治へ赴き、宴が華々しく催され、その管弦の音は宇治川をはさんだ対岸にある八の宮の山荘にまで届いたのでした。
薫と匂宮は八の宮の山荘を訪れ、趣深い接待を受けます。美しい宇治の風景や姫君たちをすっかり気に入った匂宮は、この後、中君と文を交わすようになります。
しばらくして薫が宇治を訪れたとき、重い厄年で死を予感していたのか、八の宮は薫に姫君たちの後見人になってほしいと頼むのでした。その後、「皇族の誇りを失わず、軽々しく男性になびかず、この宇治を決して離れることのないように」と姫君たちに言い残し、宇治山の山寺へ入った八の宮は病で帰らぬ人となりました。
八の宮が亡くなった年の暮れ、再び宇治を訪れた薫は心をこめて応待する大君に想いを抱き、胸中をほのめかすのですが、大君は取合おうとしません。

あげまきに 長き契りを 結びこめ 同じところに よりもあはらん・・・大君(おおいきみ)は父の遺言通り一人身を通し、中君(なかのきみ)と薫を結婚させようと思いました。ことあるごとに自分を避ける大君にもどかしさを感じる薫ですが、中君と匂宮が結ばれれば大君の気持ちを得られると考え、匂宮(におうのみや)をひそかに宇治へ案内します。
かくて、匂宮と中君は結ばれますが、皇子である匂宮は容易に出歩くこともできず、なかなか宇治へ通えません。宮を待ち偲ぶ中君の姿に大君は心を痛め、病気になってしまいます。そして、権勢を極めた夕霧(光源氏の息子)の娘である六君(ろくのきみ)と匂宮の婚約の噂が都から届き、それを聞いた大君は父の遺言にそむいて妹を不幸にしてしまったと自分を責め、生きる気力も失います。大君が病気だと知り薫はすぐに駆け付け看病しますが、薫が見守る中、大君は息を引き取ります。

第四十八帖・早蕨(さわらび) 第四十九帖・宿木(やどりぎ) 第五十帖・東屋(あずまや)

この春は 誰にか見せん なき人の 形見に摘める 峰のさわらび・・・ある春の日、独りになりわびしい日々を過ごしていた中君(なかのきみ)のもとに宇治山の阿闍梨(あざり)から蕨や土筆の初物が届きます。中君は父が師と仰いでいた僧からの心遣いがとても嬉しく返歌をしたのでした。
次の年、中君は匂宮の住む二條院に迎えられることになりますが、宇治を訪ねた薫は大君に似てきた中君が匂宮(におうのみや)の元に行くのを複雑な心境で送り出す。二條院に移った中君は幸せな暮らしを送ります。しばらく経って薫は中君を訪ね、匂宮に大事にされている中君を見て喜びますが、薫との間を匂宮に疑われている中君は心苦しく思うのでした。

やどり木と 思ひだすは 木の下の 旅寝もいかに 淋しからまし・・・一時は取りやめになった匂宮(におうのみや)と六君(ろくのきみ)との婚儀の準備が進み、この話を聞いた中君は父の遺言にそむいて宇治から離れてしまったことを後悔します。薫は中君が悲しむ姿を目の当たりにして匂宮を恨み、中君に心を寄せていきます。
六君との婚儀を済ませた匂宮は華やかで美しい六君に心奪われ、次第に二條院から足が遠のいていきます。中君(なかのきみ)は宇治へ帰りたいと薫に訴えます。薫は慰めているうちに中君に言い寄ってしまいますが、中君が妊娠していることに気づきます。二條院に戻った匂宮は中君の懐妊を喜びますが、薫の移り香に気づき中君をとがめました。困り果てた中君は再び薫が訪ねてきたとき、亡き大君(おおいきみ)にそっくりな腹違いの妹・浮舟の存在を打ち明ける。次の年の2月、中君は世継ぎの男の子を出産し立場が安定しました。
薫は大納言に昇進、以前帝から申し出のあった女二宮(おんなにのみや)との婚儀が整います。婚儀の前日、宮中で披かれた宴で、薫は実の父である柏木遺愛の笛を吹きました。葵祭りが終わって、大君のための御堂建立の様子を見に宇治を訪れた薫は、初瀬詣での帰りに偶然宇治の山荘に立ち寄った浮舟を垣間見ます。大君によく似た浮舟を見て薫の目から涙が溢れたのでした。

さしとむる 葎(むぐら)やしげき 東屋の あまり程ふる 雨そそぎかな・・・浮舟の母は昔、八の宮家に仕えていた女房でしたが、身分が低いために浮舟を娘だと認めてもらえず、常陸介(ひたちのすけ)という受領の後添えになりました。薫は浮舟を自分の元に迎えたいと申し出たのですが、浮舟の母は自分が身分の違いで辛い思いをしたこともあってためらいました。
浮舟に求婚してくる男性は、たくさんいました。そのなかで、これはと思う人物がいたので婚儀の準備が進められていたのですが、その男性は常陸介の財力が目的であったので、浮舟が実の娘でないことを知るとさっさと介の実の娘と結婚してしました。浮舟を不憫に思った母は、二條院に中君を頼りました。中君の優雅で幸せな暮らしを見た浮舟の母は、同じ八宮の娘である浮舟も高貴な身分の男性と一緒になってほしいと考えを改めたのでした。
ある日、匂宮が浮舟を見かけ、その美しさからすかさず言い寄ったのですが、内裏からの急な使者がやって来たため、匂宮は浮舟が誰なのかわからないまま立去りました。知らせを聞いた母は驚き、浮舟を三條大橋東の小家に移しました。
しばらくたったある日の夜更け、宇治の山荘の尼から浮舟の消息を聞いた薫が三條の小家を訪れ一夜を過ごした薫は浮舟を連れて早朝の三條を後にしました。草深い木幡(こはた)の山を越え、川霧に煙る宇治へと向かう途中、薫は浮舟の中に亡き大君(おおいきみ)の面影を見ていたのでした。

第五十一帖・浮舟(うきふね) 第五十二帖・蜻蛉(かげろう) 第五十三帖・手習(てならい)

橘の 小島は色も 変らじを この浮舟ぞ ゆくへ知られぬ・・・浮舟のことが忘れられず行方を捜していた匂宮(におうのみや)は、宇治から届いた若宮のお祝いの品に添えられていた文を見て、その送り主が浮舟だと確信します。忍び姿で宇治を訪れた匂宮は、薫を装って強引に浮舟と契ったのでした。浮舟は思いもよらぬことに、ただ泣くばかりでしたが、匂宮の一途な想いに惹かれていきます。一月ほど経ったある日、宇治を訪れた匂宮は、山荘の対岸の小家に浮舟を誘います。二人は小舟で宇治川へ漕ぎ出し、途中の橘の小島に立寄り歌を詠んだのでした。それからの二日間、夢のような時間が過ぎていきました。
一方、しばらく宇治へ通わずにいて何も知らない薫は、四月十日に浮舟を京の都に移すことを決めていました。また、匂宮からは三月末に浮舟を迎えたいという文が届きました。浮舟は母に事実を打ち明けられず、心は苦しみにあえぐばかり。そんなある日、薫と匂宮の文使いが偶然宇治で鉢合わせになり、浮舟の秘密はたちまち薫に知らされます。二人の男性の間でなす術もなく定まらない自分を責め、浮舟は人知れず宇治の山荘を後にします。

ありと見て 手には取られず 見ればまた 行くへも知らず 消えしかげろふ・・・宇治の山荘では、浮舟の姿が見えないので大騒ぎになりました。都にいた浮舟の母は、知らせを聞いて急いで宇治にやってきました。浮舟が薫と匂宮(におうのみや)のことで悩んでいたこと、入水したかもしれないことを侍女から聞いた母は、うわさが広がらないうちにと、形だけの葬儀を済ませてしまいました。
浮舟の死の知らせを聞いた薫は、嘆き悲しみ、浮舟をさみしく独りにさせていたことを悔やみました。匂宮は悲しみのあまり、床に伏せってしまいました。薫と匂宮はそれぞれ浮舟の侍女からことのいきさつを聞き、ますます悔やみ悲しみました。薫は浮舟の四十九日の法要を、宇治山の阿闍梨(あざり)に命じ、立派に執り行わせたのでした。

身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かととどめし・・・その頃、比叡山横川(よかわ)に徳の高い僧都(そうず)がいました。僧都は、母と妹が初瀬(はつせ)詣に出かけていたが、母が病に倒れたと知らせをうけて宇治にやってきていたのでした。その夜、僧都は宇治院の森の大木の下で倒れていた女性を助けました。僧都の妹の尼君は、亡くなった娘の代わりに観音様が授けてくださったものと思い、手厚く介抱しました。しばらくして僧都の母も元気になり、一行は女性を連れて比叡山の麓の小野の草庵へと帰っていきました。この女性が宇治の山荘から消えた浮舟でした。
浮舟は死に切れなかったことが悲しくて、決して素性を語ろうとはしませんでした。ある日、尼君の娘婿だった男性が草庵を訪れました。浮舟の姿を垣間見たこの男性はすぐに結婚を申し込んできましたが、浮舟はこの求婚をわずらわしく思っていたこともあり、出家を決心しました。尼君が留守のある日、浮舟は僧都に出家したいと懇願しました。僧都は思いとどまるように説得したのですが浮舟の決意は変わりませんでした。髪を下ろした浮舟の姿を見た尼君は嘆きました。
次の年の春、草庵を訪れていた尼君の親戚の話から、浮舟は薫が自分のための法要を準備していると知ります。しかし、このまま誰にも知られずにいたいとひたすら願いました。ところが、ある日、浮舟のことは宮中に上がった僧都から中宮(帝妃)に語られ、やがて薫にも知らされました。

第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし) 広大な四町各々に四季を表す源氏の六条院

(のり)の師と 尋ねる道を しるべにて 思はぬ山に ふみまどふかな・・・比叡山に僧都(そうず)を訪ねた薫は、詳しいいきさつを聞き、死んだと思っていた浮舟が生きていたことを知って夢心地でした。僧都は早まって浮舟を出家させてしまったことを後悔した。
次の日、薫は自分の文に僧都が書いた文を添えて、浮舟の弟の小君を草庵に使いに出しました。僧都の文は浮舟に還俗を勧める内容でした。尼君に促されて浮舟が外に目をやると弟の姿がそこにありましたが、人違いであると告げるように尼君に懇願しました。小君が思い余って几帳(きちょう)越しに文を差し出し、尼君がそれを開いて浮舟に見せました。文には薫の想いが細やかに書かれていましたが、浮舟は「昔のことは何も心に浮かばず、ただ夢のようで、確かな記憶もありません。」と文を返した。
帰ってきた小君の様子から、薫は使いに出さねばよかったと、あれこれ気を回し、誰かが浮舟を隠まっているのではないかと考えて悩み続けました。

平安京の六条京極付近に四町を占める広大な寝殿造の光源氏の邸宅。西南部分に六条御息所の邸宅跡を含む。「少女」帖で落成し、光源氏は、ここに主だった夫人たちと子女を住まわせた。四町は各々四季を象徴し、辰巳(東南)の町が春、丑寅(東北)の町が夏、未申(西南)の町が秋、戌亥(西北)の町が冬。それぞれに寝殿や対の屋があり、敷地は町ごとに壁で仕切られているが、互いに廊で繋がり往来が可能。 春の町は源氏と紫の上、明石の姫君が住んだ。源氏と紫の上は東の対に居住(一時寝殿に住んだという説あり)。明石の姫君が入内し、女三宮が降嫁した後は、女三宮が寝殿の西側に住み、明石女御が里下がりの際に寝殿の東側を住まいとした。庭園は春の草木が無数に植えられ、高い築山と広大な池を有する。池は隣の秋の町へと続いており、女房たちが舟で往来することもあった。(「胡蝶」)六条院の中心として、男踏歌(「初音」)や六条院行幸(「藤裏葉」)など数多くの華やかな行事・儀式の舞台となっている。源氏と紫の上の没後、女三宮は三条宮に移ったが、孫の女一宮が東の対に住み、同じく二宮も寝殿を休み所とした(匂宮)。 夏の町は花散里と夕霧が住み、後に玉鬘が西の対に加わる。夏向けに泉があり山里風に木々を配し、南側に池、東側に馬場殿と馬屋が設けられている。馬場では端午の節句の競べ馬などが行われた(「蛍」)。源氏没後は花散里が二条東院に移ったため、夕霧と結婚した落葉の宮が移り住んで養女・六の君を迎え、六の君と匂宮の婚儀もここで挙げられた(「宿木」)。 秋の町は秋好中宮の里邸で、元あった御息所邸の庭園の築山などをそのまま生かしており、紅葉や秋草が本物の秋の野以上に見事である。春と秋には中宮主催の季の御読経が催された(「胡蝶」)ほか、明石の姫君の裳着もここで行われた(「梅枝」)。 冬の町は明石の御方が住み、寝殿がなく対の屋2つが並ぶやや質素な作り。敷地の北側は倉が並び、松林と菊の垣根を配する。明石の女御(姫君)の最初の懐妊に際して、女御は方違えで春の町からここに移り皇子(のちの今上帝東宮)を出産、また実の祖母尼君と再会した(「若菜・上」)。

源氏と紫の上、明石の姫君が住んだ春の町 花散里と夕霧が住んだ夏の町 秋の町は秋好中宮の里邸(六条御息所邸跡)
明石の御方が住んだ冬の町 源氏物語絵巻屏風 ・・・
源氏の庭碑 ショウブ ハス
・・・ ・・・ [第四十七帖・総角(あげまき)]之古跡
与謝野晶子「宇治十帖歌碑」 さわらびの道 [第四十八帖・早蕨(さわらび)]之古跡
世界文化遺産・宇治上神社 地図

元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。

世界文化遺産・宇治上神社 立砂と拝殿(国宝:鎌倉期)
宇治七名水の一「桐原水(きりはらすい)、本殿(国宝)

桐原水・・・室町時代に「宇治七名園」が作られ、それに伴いお茶に欠かせない水にも「宇治七名水」が定められ、桐原水一つに数えられました。現在他の六名水は失われましたが、桐原水だけが、今もなお枯れる事なく涌き出しています。本殿・・・覆屋(おおいや)のある本殿には、三社が収められ、祭神は向かって右が「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)(弟)」真中が「応神天皇(父)」、左が「仁徳天皇(兄)」とされています。それぞれ神殿としては小規模ですが、その造りは大変優雅で、神社築としては日本最古のものと伝わり、建築年代は平安時代後期と推定され国宝に指定されています。

宇治七名水の一・桐原水(きりはらすい) 本殿(国宝:平安期)
源氏物語の舞台に相応しい桧皮葺の拝殿(国宝:鎌倉期) 本殿(国宝:平安期)
大吉山登山道(左)分岐 大吉山へ・・・突撃ぃ〜o(*^▽^*)oあはっ♪
・・・ ・・・ 展望台のあずまやに到着! (*´ο`*)=3ホッ
展望台のあずまやまからの宇治市街地俯瞰・・・遠く、梅田スカイビルや六甲山系の稜線が見えてます!!!(*^▽^*)/やっほ〜 地図
平等院俯瞰 みやこ路快速が宇治川を渡っていきます・・ 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の歌碑
朝日山経由で志津川へ・・・ 大吉山三等三角点(点名:旭山/標高:131.80m)
・・・ 朝日山〜志津川ルート(東海自然歩道)
手入れされているお地蔵さま 宇治川が氾濫して川沿いの道が通れない時は、この道が志津川へ行く道だったとか・・・
ハンドル操作とスピードの出し過ぎ厳禁! 道標石:左 志津川、右 天ヶ瀬・・左へGO! 天ヶ瀬ルートは道が荒れて通行止め! (>_<)
所々に倒木があったり、雨で道が荒れているのでスピードの出し過ぎとハンドリングは慎重に・・・
志津川 地図

三室戸より東へ約1km、天ヶ瀬より志津川の渓流に沿って約1kmで達する山間地域で口碑によると、この地域の祖先は、平家の落ち武者で、その子孫は山林伐木を業として一村を成したと伝えます。神女神社の前に、その旨を記した「志津川村碑」が建っています。ひと昔前まで、村の長老十人を選び十老によって諸事万端を執り行ったとも伝えます。以前は山林や茶樹の栽培を主な生業としたが、近年は、道路整備によって交通も便利になり街へ勤める人が多くなりました。また三室戸寺が、はじめ志津川にあったことは「山城名勝志」に記すところですが、その寺跡については明らかにせず、おそらく志津川地域の東北、志津川に臨む山麓のやや平坦な所と推察され、そこは寺名の起こりとなった御諸(みもろ)山と呼ぶに相応しい巨大な岩山が背後に突兀と聳えています。

志津川の集落 ガソリンスタンド見っけ!(・_・)ヾ(^o^;) オイオイ
呑んだら乗らない!乗るなら呑まない!!でつ・・・ねっ?! (^_-) 里山の風情がええ感じや〜(*^-^*)
普段は穏やかな清流の志津川・・・先月のゲリラ豪雨で大被害が出ました。 笠取方面は未だ通行止めです。
志津川に流れ込む仙郷川も上流からたくさんの土石が流れ込んで川底がかなり浅くなっています・・・水害の被害が一目瞭然です。
神女(しんめ/しんにょ)神社 地図

志津川に住んでいた平家の落武者の子孫が祀っていた祠が幾つかあり、明治に入ってから、これらの祠を一つに合祀した神社を作り、祭神が女性であることから、「神女神社」と名付けた。安芸の宮島にある平家ゆかりの厳島神社と同じく市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする志津川地域の産土神です。元は志津川地域の西南にあったが明治6年(1873年)、当地に移したと伝え、八幡神と三輪明神を合祀しています。境内の背後には、俗に伊勢講山と称する巨大な岩山がそそり立ち、前方は仙郷川の渓流に臨んですこぶる幽邃に富んでいます。この社前の渓谷を竜ヶ壷といい、喜撰法師が行を営んだ所とも伝えます。昔は、奇岩、怪石が渓流に横たわり水は数丈の滝となって奔流していたと伝えるが、今は道路改修などにより往時の面影はまったく見られません

神女神社 志津川村碑 手水
こじんまりとした境内と社殿 伊勢講山と称する巨大な岩山
一日も早い復興がなりますように・・・祈願! 志津川に合流する仙郷川は、流れ込んだ土石でかなり川底が浅くなってしまっている・・・
ホタルでも飛んでいそうな清流・志津川ですが、先月のゲリラ豪雨では暴れ川に変化し悲惨な川姿に変わってしまいました。・・・
志津川上流 ほのぼのした家並み
ほのぼのした家並みについついデジ亀のシャッターを切ってしまいます!
天ヶ瀬ダム方面 三室戸寺方面 志津川
のどかな志津川の集落を抜けます・・・・ 水没?被災した車
のどかな里山と清流の志津川・・決壊した堤防に土嚢が積まれて洪水の痕跡が生々しい・・ ここにも洪水の痕跡
おそらく流されたクローラー運搬車がひっくり返っています。(*_*) 天ヶ瀬ダム方面
・・・ 渓流・志津川 宇治川・・右上、志津川合流地
天ヶ瀬(あまがせ)ダム 地図

宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。

天ヶ瀬ダム@白虹橋 天ヶ瀬つり橋
天ヶ瀬つり橋 宇治川
・・・ 川遊びしている人が大勢いました・・ ・・・
蛍塚(蛍ヶ淵)

宇治川は源氏蛍、平家蛍、姫蛍の生息に恵まれ夏は蛍狩りが盛んでした。特に源氏、平家蛍が交尾の為に入り乱れて乱舞する様を蛍合戦と称され「嬉遊笑覧:きゆうしょうらん」十二によれば宇治の蛍は他所より一回り大きく光がことさら明るいのは治承4年(1180年)、平氏追討の為に挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中、宇治平等院で自刃した源三位頼政の亡魂が蛍になり今も合戦をするが如く水面に多数群がり・・・と頼政亡魂説を伝えています。

蛍塚 ・・・ [第四十九帖・宿木(やどりぎ)]之古跡
宇治橋の向こうを電車が走り、その奥に愛宕山の雄姿が拝める・・宇治川は北西に向かって流れ、その先で大きく西曲して淀川になります・・・
喜撰橋と浮島(塔ノ島) 鵜飼など川遊びの遊覧船
あじろぎの道 世界文化遺産・平等院 平等院通り
紫式部と源氏物語・宇治十帖之古跡

天延元年(973年)頃、高名な漢詩文家であり、受領(ずりょう)であった、藤原為時(ためとき)の娘として誕生。曾祖父は平安時代中期の歌人として有名な、堤中納言兼輔(つつみちゅうなごんかねすけ)にあたる。幼くして母を亡くし、為時の影響を受けて育ちました。結婚3年後に夫が病死し、悲しみを紛らせるために書き始めた物語が『源氏物語』だと伝える。これが評判を呼び、当時最大の権力者・藤原道長の娘にあたる一条天皇の中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)の女房として仕えることになりました。式部は彰子の家庭教師のような役割だったと同時に道長の愛人だったとも伝える。本名は不明で、『源氏物語』の別名『紫の物語』を書いた人であり、父・為時が「式部の丞」を勤めたこともあるということから「紫式部」と呼ばれたと考えられます。・・・千年の間、人々に愛されてきた 『 源氏物語 』 はフィクションであるにもかかわらず、その古蹟が宇治に点在しています。江戸時代、好事家たちによって、物語最後の十帖にちなんだ古蹟が各々定められました。これが「宇治十帖」の古蹟で、変遷を経ながらも、今日に伝えられています。その中には、洛北小野の地が相応しいと思われる「手習」、「夢浮橋」の古蹟も含まれますが、宇治の地に建てられています。

一度訪ねたいおやすみ処 [第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡 源氏物語・紫式部と大吉山
源氏物語・紫式部と日本三古橋の一・宇治橋 JR奈良線・宇治駅
宇治川左岸堤防 京滋バイパス
栄養補給中・・(*´ο`*)=3ホッ ・・・ 近鉄京都線
巨椋池(おぐらいけ)

かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残と伝えます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。

かつて、この辺り一帯に約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。
巨椋池は昭和8年(1933年)に干拓工事が始まり昭和16年(1941年)に干拓工事完成と共に大池は姿を消し田園風景に変わりました。

干拓と埋め立ては違います。干拓とは、たくさんの水路を作りそこに水を集めていきます。その流れを一つにして大きな川の本流に送り出します。つまり干拓の基本は、排水です。干拓工事の完成から12年後の昭和28年(1953年)の大洪水で元の大池のような姿に戻りました。今も巨椋池干拓地の中に何本もの排水幹線や古川、大内川が流れ巨椋池排水機場、久御山排水機場に集められポンプで宇治川に排水され地域を洪水から守っています。

久御山JCT 古川 桜並木で知られる排水幹線・前川
・・・ ・・・ 巨椋大橋の上り坂 (; ̄ー ̄A
ツバメの塒としても知られる宇治川の葦原

宇治川

・・・

・・・ アイスとケーキを買いました!(^-^)v 油小路大手筋交差点
伏見百景・酒蔵 大手筋商店街 風呂屋はないけど風呂屋町
おまけコラム!(^^ゞ
大手筋を西進・・・ 旧京阪国道 お菓子メーカーA堂の伏見工場
西日本最大級のおかしの国というA堂工場内には知る人ぞ知る直売所が二ヶ所あります・・・ こじんまりとしたセルフ方式の直売所
驚く事に店員さんは、一人もいません。・・価格も製品状態や賞味期限などメーカーさんのご都合価格ですのでかなり格安!\(●⌒∇⌒●)/
購入したお菓子の代金を電卓で計算して、料金箱に支払うセルフ方式!(^-^)v 羽束師橋
夏の名残?!満開のひまわりさん! 大阪(京)街道・・・旧街道の風情がええ感じや〜(⌒▽⌒)
羽束師(はづかし)橋 草津の湊(桂川・鴨川合流地) 淀、八幡方面@桂川
神川(かみかわ)神社

神川座住吉神社と称した。 式内社。鴨川村の産土神で元は、住吉神社と云った。文政年間の当社神主古川為猛の『住吉社之略記』によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為ため、度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされている。

桂川 実りの秋!\(●⌒∇⌒●)/ 神川神社
・・・ 神門(割り拝殿) 本殿
境内の竹林 秋を感じさせてくれる彼岸花
桂川右岸堤防 久我橋 桂川
城南宮(鳥羽離宮跡)

神功皇后が、朝鮮半島出兵時の勝利の御旗を奉斎したのが、この神社の由来。後に桓武天皇が、平安遷都にさいし王城の南の守護神とし、さらに後、この地に鳥羽離宮が造営されると離宮に組み込まれました。応仁の乱(1467〜1477年)で離宮は荒廃し城南宮のみが、現在に至る。方除(ほうよけ)の神として信仰されている。

城南宮
本殿 油小路 伏見百景の一・酒蔵

Torist.2012.09.17、24(M)

 

あとがき

冠省

去る、8月14日、私が宇治を訪ねた13日の夜半からの記録的な豪雨によって宇治・志津川、宇治田原、南山城にも甚大な被害受けました。

不幸にも被災された方々並びに被災地に慎んでお見舞いを申し上げます。

被災後、宇治・志津川へお邪魔してきました。何度も訪ねていたので町の変化に気づきました。

未だに災害の痕跡が残っているところが何ヶ所もありました。

略儀ではございますが、この場をお借りして、お見舞い申し上げ、一日も早く復旧、復興がなりますよう重々に心願いたします。  早々   管理人・Syo

 

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