京洛の天満宮詣で
東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ 菅原道真
長岡天満宮〜北向見返り天満宮〜羽束師神社〜吉祥院天満宮〜北野天満宮、文子天満宮〜晴明神社
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菅原道真 |
天神さんと親しまれ学問の神と崇められている道真は菅公、管丞相(かんしょうじょう)とも言い参議・是善(これよし)の子で学者、文人(特に漢詩に優れた詩人)、政治家として平安時代初期に活躍しました。幼少の頃から文才に優れ11才で詩を賦して父を驚かせ18才で文章生(もんじょうせい)になり、26才で上級国家試験の「秀才」に合格、33才で文章(もんじょう)博士となりました。詩文に優れ、詩はよく白楽天の風を得ていました。詔を奉じて「三代実録」の編集に与かり、又、「類聚国史」二百巻を著しました。藤原氏と血縁関係のない宇多天皇は道真を重用する事で藤原氏の専横を抑制する方針をとられ55才の時、父帝の遺戒を守った醍醐天皇の治世下では右大臣にまで昇進しました。ところが、儒門出の道真の右大臣就任が未だかってない異例で時の権力者の藤原氏や公卿などに嫉視疎まれ遂に昌泰4年(901年)1月25日、左大臣・藤原時平の「道真は醍醐天皇を廃して女婿・斉世(ときよ)親王を擁立しようと謀っている」との讒言(陰謀)によって失脚し、北九州の太宰府へ左遷されました。延喜3年(903年)2月25日、58才で亡くなりました。永年、住み慣れた西洞院高辻の紅梅殿を去る時、道真は「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだと伝える。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」もある。 |
新堀川大手筋交差点 | 羽束師橋(桂川)と西山・・道真が大宰府に左遷される時に乗船したと伝える草津湊@羽束師橋 | |
長岡京へ・・・ | 京都総合運転所(向日町操車場) | 3代目・117系新快速、営業Max115km/h |
4代目・221系新快速、営業Max120km/h | 5代目・223系新快速、営業Max130km/h | |
今では珍しい急行寝台電車・きたぐに、営業Max120 km/h。583系は月光形電車の異名をもつ。 | 221系快速が快走していきます・・・ | |
架け替え費用の負担金としてを通行人から銭一文を取り始めたのが、橋名由来の一文字橋 | 西国街道 | |
西国街道にある一里塚 | 八条ヶ池@長岡天満宮 | ・・・ |
長岡天満宮 ☆地図 | ||
一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。 |
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八条ヶ池 | 石造の大鳥居 | えぇなぁ〜 (*^▽^*) |
毎年、4月下旬〜5月上旬に見事な濃紅色の霧島ツツジが咲き誇ります。\(●⌒∇⌒●)/ | ||
錦秋庭園 | ・・・ | ・・・ |
なでウシさん・・ウシさんですが、シカとなでなで・・(^▽^;)どもども | ||
御朱印と合格祈願絵馬を奉納しました。道真さまっ、どうか・・よろしこ(^-^)v | 書道上達を願う筆塚 | |
本殿 | 椿一輪 | 梅苑@長岡公園 |
開花はちらっ程度ですが、梅一輪一輪ほどの暖かさ 春の匂いがします。(*^-^*) | 菅公の歌碑 | |
お待たせ〜(^^ゞ | 水上橋 | のどかな里山の風情・・ |
寂照(じゃくしょう)院☆ 地図 | ||
木上山(このかみのやま)と号し道雄僧都(どうゆうそうず)が創建した海印寺十寺の一とされ元は真言宗でしたが今は単立寺院となっています。創建はすこぶる古く「文徳実録」によれば道雄僧都はかねてより一寺を建立したいと願った。たまたま夢に木上山が景勝地である事を知り弘仁10年(819年)、勅許を得て伽藍を造営し観音像を安置して海印寺と号しました。元慶4年(880年)、清和天皇は勝尾山より帰洛の途路、当寺に立ち寄られ俄に水尾山寺に出家された事があり皇室との因果も浅からぬ名刹でした。往時は寺領も広く今の奥海印寺、下海印寺は当寺伽藍の旧跡地と伝える。応仁の兵火で一山焼亡し今は寂照院の一坊を残すのみとなりました。一説によると乙訓のタケノコの発祥地と言われています。 |
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・・・ | 寂照院(仁王門) | 解説パネル |
江戸時代の伽藍図 | 仁王像 | 境内 |
乙訓のタケノコ発祥地碑 | 境内からの眺め\(●⌒∇⌒●)/ | |
走田9号墳と墳丘と横穴式石室・・7世紀初期の円墳で石室は石材を組み合わせた家型の石棺が置かれていた。この石棺は現在、長岡京市立埋蔵文化財センターの入り口に置いてある。 |
解説 | |
本堂 | 珍しい石龕(せきがん)仏 | 走田神社一の鳥居 |
走田(はしりだ/はせた)神社 ☆地図 | ||
走田とは走り穂、初穂を作る田(早稲田)の守護神として有名で奥海印寺、長法寺の産土神です。式内社で延喜の制に記される乙訓十九座の一つで 祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、姫大神(ひめおおかみ)の春日四神を祀ります。かっては妙見社と言われ寂照寺の鎮守社でしたが明治以後、走田神社と呼ばれるようになり毎年、1月13日には御千度詣り、弓講が行われる。 明治初め頃まで同じ祭神を祀る小倉神社(大山崎町円明寺)の神輿がこの社まで渡御していました。 |
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寂照院裏からの男山〜天王山、西山の稜線 | 走田神社二の鳥居 | |
説明札 | 長い石段 | 拝殿 |
本殿 | 寂照院、走田神社のある丘 | ・・・ |
友人O.Kくんが社長に就任した寿司の茶月・・長岡京店のイケ面?オーナー・KK君とも26年ぶりの再会!\(●⌒∇⌒●)/東京では世話になったの〜 どうぞ御ひいきに<(_ _)> | ||
阪急長岡天神駅 | この先が馬場というから見場走りも馬に関連した地名なのかな・・・ | |
北向見返り天満宮 ☆地図 | ||
延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたと伝える。 |
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イナイチ(R171)・馬場交差点 | 東風吹けば・・・北向見返り天満宮 | |
羽束師(はづかし)神社 ☆地図 | ||
旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年(701年)以前からの鎮座していた羽束氏の祖神を祀った神社と伝える。 |
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道真が羽束師神社に参拝した時に北(京)を向いて見返り別れを惜しんだ所 | 羽束師神社参道 | |
羽束師神社 | ロウ梅のいい香り | 拝殿 |
両手招きの億万両猫とは\(●⌒∇⌒●)/ | しかと参拝しました。(^-^)v | かつて久我畷に立っていた道標石 |
説明碑 | 桂川 | 西山方面 |
田中神社 ☆地図 | ||
下鳥羽、横大路の産土神として冶暦年間(1065年)に八坂神社より牛頭天王を勧請した。当初は上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に移転したと伝えます。 |
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田中神社 | 御神水・牛頭水 | |
ヒヒヒ〜ンといななく?阿吽のこま馬さん?!(@_@;) | 本殿 | |
竹田街道を北上・・・ | ・・・ | 銭取り橋とも言われた勧進橋 |
吉祥院天満宮(受験合格、開運招福) ☆地図 | ||
菅原道真没後31年の承平4年(934年)、菅原家ゆかりの道真誕生の地に朱雀天皇の勅命により創建された最初の天満宮です。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真の祖父・清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女(きっしょうてんにょ)の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像を祀りました。これが吉祥院の由来で地名の起源となっています。境内には道真のへその緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚を始め、少年時代に習字に使用したという硯(すずり)の水や顔を写したと伝える鑑(かがみ)の井などがあります。(当社創建由緒より) |
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十条通りを西進 o(*^▽^*)o | 道真生誕地と伝える吉祥院天満宮 | 菅公夫人墓とも言われる北政所墓 |
弁財天社 | 道真が顔を映したと伝える鑑(かがみ)の井 | 境内へ・・ |
道真のへその緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚 | 本殿 | |
御朱印と絵馬を頂きました。 | 合格祈願絵馬を奉納しました。道真さまっ、どうか・・よろしこ(^-^)v | |
天駆ける天馬?!\(●⌒∇⌒●)/ | o(*^▽^*)oあはっ♪ | |
道真が習字に使用したという硯(すずり)の水 | 吉祥天女(きっしょうてんにょ)社 | JR西大路駅 |
若一(にゃくいち)神社 ☆地図 | ||
熊野権現の第一王子を祀る小社。社前の老楠木は平清盛の手植えと伝え古来、神木として偉敬され昭和9年(1934年)の西大路通りの開通にあたって伐りはらわれる事もなく道路を迂回させました。当社は勝明寺の鎮守社と云われ明治の神仏分離によって独立。今は御所ノ内町一帯の産土神とされる。因みに当社は、清盛西八条殿邸内の鎮守社で清盛の勧請と伝えます。☆ 余談ですが、平安時代中期の陰陽師・安部晴明が後に土御門(つちみかど)家に改名、晴明の邸宅は梅小路に移り、土御門家は江戸時代まで陰陽道を伝えました。この付近の御前通り八条上るの円光寺と梅林寺の二寺には土御門家の家名名残の天文道の遺蹟、墓が残され梅林寺近くには晴明を祭神とした稲住(いねずみ)神社があります。 |
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西大路通りに張り出した大楠木は平清盛の手植えと伝える。 | 若一大神御神蹟 | |
西八条殿の鎮守社と伝える若一神社 | 相国平清盛像 | |
清盛ゆかりの御神水 | 清盛に翻弄された祇王の歌碑 | 境内 |
椿寺(地蔵院) ☆地図 | ||
正しくは、地蔵院と言い、浄土宗知恩院派の寺で山号を毘陽山と号するのは、地蔵堂に安置する地蔵菩薩が、元、摂津国毘陽野の毘陽寺より移したものと伝えるからで、いつ頃に移したものか明らかではないです。初め、衣笠山の麓にあったのを天正年間、豊臣秀吉の命により、現在地に移したと伝え、地蔵堂背後の二枚開きの板扉(室町期)は、元、北野の多宝塔の遺構と伝えます。書院前の散椿は、樹齢約400余年に及ぶ五色の八重椿で元、朝鮮山城にあったのを文禄の役に加藤清正が携え帰って秀吉に献じたものと伝え秀吉は北野大茶湯の時に当院に寄進したと伝えます。毎年の3月末頃に咲き始め、5月の中頃まで花が咲きます。花は、真紅、純白、薄紅、紅白絞りなどの五色からなり、花時は実に見事です。その花びらが一片、々と散るので散り椿と言い、この銘木に因んで当寺を椿寺と言います。 |
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西大路通りを北上o(*^▽^*)o | JR嵯峨野線(山陰本線)・円町駅辺り | 椿寺(地蔵院) |
こま札 | 境内 | 樹齢約400余年と伝える五色の散椿 |
桜 | 地蔵堂 | 北野界隈はお土居に沿って流れる紙屋川 |
大将軍八神社 ☆地図 | ||
この地は、平安京右京一条の大宮の西にあたり、御室を経て嵯峨に至る街道の要衝です。古くは、大将軍堂と言い祭神は素盞鳴命、その御子・五男三女の御子八神と聖武、桓武両帝を祀ります。桓武天皇が平安京遷都にあたり、王城鎮護の為に大和国春日より勧請し、京都の四方に営まれた大将軍の一と言うが明証がありません。大将軍とは、元、陰陽道に言う所の神で西方の星、太白(金星)の精と言われる宵の明星の事です。五行思想に於いて金行は西にあたり、その色は白、性質は殺伐、そこで太白と言い大将軍(素盞鳴命)と言います。大将軍は3年間、方伯となって四方の地を守り、12年で一巡すると考えら歳徳神、天一神、金神として畏敬されました。八神とは、大歳神、大将軍、大陰神、歳刑神、歳破神、歳殺神、黄旛神、豹尾神を言ったもので、かかる陰陽道の信仰は帰化人によってもたらされ神道と習合して素盞鳴命ともなり、仏教と習合して牛頭(ごず)天王となりました。当社が素盞鳴命を祀るのは、この為で当地に祀ったのは、ここが平安京内裏の西北角にあたり道饗(みちあえ)祭とは、京外より侵入する悪神を京の四隅の路上で饗応し侵入を押し留める為に行う祭儀を言います。当社は、方除けの神、疫病の神として朝野の崇敬を受け「山槐記」によれば、治承2年(1178年)11月12日、中宮(建礼門院)安産祈願に勅使を派遣された事が記されるので、それ以前に神祠が設けられていた事が、想像され、中世には祇園八坂神社の支配するところとなりました。 |
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大将軍八神社 | こま札 | 境内 |
船の碇 | 本殿 | |
妖怪ストリートで知られる大将軍商店街 | おサカナくん?!魚々?!ギョギョッ\(◎o◎)/! | 京都市電北野線記念碑と廃線跡の道路 |
北野天満宮 ☆地図 | ||
菅原道真を祭神とする旧官幣中社で北野神社、北野天神とも呼ばれ境内には50種約2000本の梅が植えられ例年2月初旬〜梅苑が公開されます。創建はすこぶる古く、天慶5年(942年)に神霊を勧請し天満天神として崇めたのに始まり藤原師輔(もろすけ)は神殿を造営し神宝を献じ永延元年(987年)、一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得て二十二社の幣例に加えられました。道真は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸多く、奉幣祈願の絶える事なく江戸時代には文道の大祖・風月の本主と崇められ全国各地に神霊を勧請し分社が建立され「北野の天神さん」と親しまれ「東寺の弘法さん」と共に市民に崇敬されています。 |
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北野天満宮@今出川通り | 北野天満宮@今出川通り | 初雪の日に神が降臨すると伝える影向松 |
鎌倉期?石仏 | 観音寺 | |
蜘蛛塚、忌明(いみあけ)塔 | ||
蜘蛛塚・・・石灯篭の残欠火袋を言い、蜘蛛塚は一に山伏塚とも言い、元、七本松通一条上ル清和院の西門前にあって隆然たる墳丘をなしていました。源頼光を悩ませた蜘蛛の棲息していた所と言われ江戸時代には塚の傍で舞台を設け、時々猿楽などを演じると開演期間中に必ず、雨が降るので塚の祟りだと噂されたと伝えます。「京都坊目誌」によれば明治31年に塚を破却したところ石仏や墓標、石塔、石灯篭の破損したものが出土し考証に資すべきものはなかった。ここにある火袋はその時の遺物を移したものと言われます。五輪石塔三基は、元、北野の東、馬喰町の民家裏にあった無名古墳のもので、金売橘(吉)次の墓との説がありますが、信ずるに足るようなものではないです。忌明塔・・・高さ2mに及ぶ巨大な五輪石塔(鎌倉期)で、元は伴氏社(ともうじのやしろ)にあったものを明治4年にここへ移しました。菅公御母大伴氏の廟とも言い、一説には山名氏清塔とも言われ諸説多くして何れにも定め難い。忌明の塔と言うのは昔、父母を亡くした人が49日の喪に服し忌明けの50日目に、この塔に詣る風習があったからで既に室町時代頃から行われていました。尚、忌明塔としては石清水八幡宮、寺町革堂、東山知恩院にもあります。 |
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蜘蛛塚と金売橘(吉)次の墓?五輪石塔 | 忌明(いみあけ)塔 | 筆塚 |
道真の母・伴氏を祀る伴氏社(ともうじのやしろ) | こま札 | 文道の大祖・風月の本主の額を掲げる楼門 |
豊公北野大茶湯の跡 | 太閤井戸 | 豊臣秀頼が再建した中門(三光門) |
梅香水(手水) | 珍しい赤目のなでウシさん | 白梅 |
紅梅 | ・・・ | ジャージー牛Ver?なでウシさん(^▽^;) |
織部形石灯籠下部(脚部)にマリア像があるのでマリア灯篭、キリシタン灯篭とも言われる。 | マリア像と言われる彫刻 | |
紅梅と石灯篭 | 鼻穴(笑くぼ)に小石を乗せ落ちずに乗った石を財布に入れると縁起良し!!!(^-^)v 大黒組灯籠 | |
照憲皇太后御献進紅梅の二代目・世継の梅 | 角がある狛犬(@_@;) | 紅梅 |
豊臣秀頼が再建した中門(三光門) | 絵馬所 | |
合格祈願絵馬を奉納しました。道真さまっ、どうか・・よろしこ(^-^)v | ||
白梅が春の香りを届けてくれる・・(*^-^*) | 境内 | |
綱灯篭 | ||
渡辺綱が、寄進したと伝える鎌倉時代中期の灯籠。綱灯篭には、次のような伝説がある。「平家物語」(屋代本)剣巻に、渡辺綱が夜更けに主の使いで道を急いでいた時、一条戻り橋で、美しい女御に出会った。女御に夜も更けたので送って欲しいと頼まれ一緒に馬に乗せた。ところが五条渡し場辺りで美しい女御は、たちまち恐ろしい鬼女となり、綱の髻をつかんで空中に舞い上がった。綱はとっさに刀を抜き、髻をつかんでいる鬼女の腕を切り落とした。そのまま空中に放り出された綱が落下したのが、北野天満宮回廊の屋根上・・・命拾いをした綱は、道真公の御加護として石灯籠を寄進したと記されます。 |
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平家物語ゆかりの綱灯篭 | 桧皮葺の本殿(国宝:桃山期) | 「八棟造:やつむねづくり」と呼ばれる社殿 |
北野天満宮の前身とも言われる「文子(あやこ)天満宮」 | ||
醍醐天皇の治世下、菅原道真55才の時、右大臣に昇進、道真の異例の出世が、時の権力者の藤原氏や公家らに疎まれ昌泰4年(901年)1月25日、左大臣・藤原時平の讒言により道真は失脚し太宰府に左遷され、延喜3年(903年)2月25日、58才の時に太宰府で亡くなりました。後に時平始め藤原一門が災難に見舞われたり紫宸殿に落雷があり朝臣の頓死、地震、災害、天候不順など天災で農作物が不作になったり政治経済も大変に混乱しました。これは道真の怨霊による祟りだとされ道真を祀る信仰が興りました。天慶5年(942年)、西京の巫女・多治比文子(たじひのあやこ)は、「我を右近の馬場(北野右近馬場)に祀れ」と火雷天神(道真)の託宣を受けますが文子は貧しくて社殿を建立できず自宅の畔に小祠を設けて道真の霊を祀ったと伝えます。近江比良宮禰宜神(みわ)良種の男・太郎丸にも火雷天神(道真)の「我を右近の馬場(北野右近馬場)に祀れ」の託宣があり、天暦元年(947年)6月9日、文子と神(みわ)が協力して、北野朝日寺の僧・最鎮と図って祠宇を設けたのが北野天満宮の創建と言われると共に文子天満宮の始まりと伝え北野天満宮の前身と言われる所以です。文子天満宮は、明治6年(1873年)、西京の旧地から当地に移し祀ったもので毎年の4月12日に西京の旧跡に神輿渡御があります。 |
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紅梅 | 文子天満宮 | |
北門 | 史跡・御土居 | |
解説 | 御土居から出土した石仏群 | 御土居と紙屋川 |
ワオッ?!(@_@;) | 白梅 | ・・・ |
史跡・御土居(桃山期) ☆地図 | ||
北野天満宮境内西側、紙屋川に沿って築かれた土堤を称し土堤には多くの梅樹を植え、平野の社を隔てて衣笠山を望む景勝の地となっていました。御土居は天正15年(1587年)、豊臣秀吉が京都の市街区整理を行った時、洛の内外を区分する為に築造した土堤で外側には濠をうがち、7ヶ所(一説に10ヵ所)の出入り口には番舎を設け治安の維持を図ると共に出水による市内の被害を防ぎました。御土居は東は鴨川右岸(西側)に沿って上加茂の西南端に達し紫竹の北方を経て鷹ヶ峰の南に至り、紙屋川に沿って南下し南は東寺・四塚を囲んで東は鴨川に及んだ延長5里26丁4間1尺3寸5分(約22.5km)の長大な土塁を以って都を囲みました。南北に長いのに比べ東西がやや狭いのは、当時に予想された市街区の発達に秀吉が考慮を払った結果によるものと伝え、後に京都市街の変遷は、秀吉の予想にほぼ的中したが近年は都市開発などにより追々と破壊され今は北野天満宮境内、鷹ヶ峰などに一部が現存するに過ぎません。 |
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「八棟造:やつむねづくり」と呼ばれる社殿 | 史跡・御土居碑 | 解説 |
御土居図 | 豊臣秀吉が築かせた御土居に多くの梅樹を植えた「御土居下梅苑」 | |
御土居下梅苑の開花は、まだ少し先かな・・梅苑は2月11日から公開予定です。 | ||
ロウ梅のいい匂い(*^-^*) | 長らくのお待たせ〜(^^ゞ | 北野天満宮東門 |
京都最古の花街・上七軒(かみしちけん) ☆地図 | ||
祇園を初め幾つかの花街がありますが、上七軒は最も古く、室町時代に北野天満宮造営に使った残木で七軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝えます。豊臣秀吉が北野で大茶湯をした時、七軒茶屋に立ち寄ったところ、お茶屋の者が御手洗団子(みたらしだんご)を献じたので、その賞とて山城一円の茶屋株(遊女屋)の特許を与えたと伝えます。江戸時代、北野天満宮の参拝者を対象とし大いに栄えましたが、後に遊女屋渡世の者が内野五番町に出店を出すに及んで漸次、芸妓を主とするに至りました。特に西陣を近くに控えているので顧客は、専ら西陣の機業家を主とし、他の花街と比して比較的地味、古風が特色です。昭和35年に於いてお茶屋は32軒、芸妓は40名弱でした。今でも10軒のお茶屋と飲食店が軒を連ねて往時の面影が残っています。毎年春(4/15〜4/25)には「北野をどり」、秋には「寿会」が上七軒歌舞練場(北野会館)で催されます。 |
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東門の石鳥居と白梅 | 京都最古の花街、上七軒 | |
やきもち@天神堂 | 花街にひっそりと鎮座する光盛大明神 | 北野をどり、寿会が催される上七軒歌舞練場(北野会館) |
千本釈迦堂(大報恩寺:だいほうおんじ) ☆地図 | ||
瑞応山と号する新義真言宗智山派の寺で釈迦如来像を安置する事から世に「千本釈迦堂」と言い、昔は嵯峨釈迦堂(清涼寺)と並んで釈迦如来信仰の中心をなしました。「本朝高僧伝」巻65に記す「京兆大報恩寺沙門義空伝」によると当寺の開山求法上人義空は、羽州の生まれで藤原秀衝(ひでひら)の遠孫に当たると言われ父は、忠明と言い母は薬師如来に祈って日輪を呑む夢を見て上人を生んだと伝えます。幼少より学問を好み鎌倉に出て修行し次いで、比叡山に登って澄憲法師に謁し天台密教を会得しました。常に石清水、北野、天王寺に詣で、仏法相応の霊地を得ん事を祈りました。たまたま、猫間中納言光隆卿の家卒・岸高なる人が千本の地を捨てて上人に寄進したので、ここに小堂を構え、一仏十弟子像を安置したのが承久3年(1221年)で当寺の起こりと伝える。次いで貞応2年(1223年)、大堂を建てんと欲したが、大黒柱がないので大工達は、いかんとする事もできませんでした。ところが、摂津尼崎に浄金(成金)という材木商がいて、ある夜の夢に金色白眉の老僧が現れ、洛北に一つの精舎が建てられているがついては、お前が所蔵する巨材を心柱にしたいから是非、売ってくれと言いました。浄金がその申し出に応じたところ「大報恩寺」なる印を木頭に刻んだ。と思うと夢が覚め、見ると材木に印文が燦然と記されていたので大いに感嘆しました。早速、京都に上って大報恩寺を訪ねると堂内に安置する釈迦尊者像が夢見にした老荘でした。浄金は早速、材木を提供したので大堂も不日に完成したと伝えます。初め、倶舎、天台、真言三宗弘通の霊場として往時は堂塔伽藍も完備し壮麗を極めましたが、中世の兵乱によって多くを焼亡したが、鎌倉初期に建てられた本堂(釈迦堂)は、応仁の乱、大永の乱、享保の大火でも奇跡的に災を免れ、京都市における現存最古の木造建築物として国宝に指定されている。境内には本堂建立の際に、棟梁の長井飛騨守・高次に内助の功を尽くした妻・阿亀(おかめ)を供養する「おかめ塚」があり、2月の節分に男女共に紅白のおかめ装束に扮する「おかめ節分」は有名。12月7、8日に行われる厄除けの大根焚き(だいこだき)は、多くの参詣者で賑わいます。 |
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千本釈迦堂(大報恩寺) | こま札 | 観音堂(本堂) |
阿亀さま・・(@^.^@) えへっ | こま札 | 阿亀塚 |
阿亀桜(枝垂桜) | 七福神の一・布袋尊 | 合掌 |
藤原定家寓居・時雨亭(しぐれのちん、しぐれてい) | ||
西陣郵便局の西側の細い道を定家の辻子(ていかのずし)、殿下の辻子(てんかのずし、でんかのずし)と呼んでいる。かつて北は今出川通り、西は千本通り、南は中筋通り、東はテンカノズシに 囲まれた地に藤原定家の寓居・時雨亭があったと伝える。時雨亭も、応仁の乱で焼け、東の道が残り、定家辻子(ていかのずし)と呼ばれ、「しぐれかと 聞くは木(こ)の葉の ふるものを それにもぬるる わがたもとかな」と定家が時雨の歌を詠んだ所と伝え、謡曲『定家』の舞台にもなっている。 |
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京都市内現存最古の本堂(国宝:鎌倉期) | この辺りが藤原定家の時雨亭跡推定地 | |
五辻殿跡 | ||
後鳥羽上皇の院御所として元久元年(1204年)から使用された邸宅。藤原長兼の日記・三長記には、「五辻南・大宮西・櫛笥末」に位置したとある。上皇の院御所としては数十ヶ所が知られいるが、高陽院と二条殿が恒常的に使用されており、五辻殿の使用は短期間であったようで、元久三年(1206年)以降は不詳である。 |
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般舟院本堂 | 五辻殿跡 | こま札 |
不焼寺と称する本隆寺、千代野井、夜泣止の松 ☆地図 | ||
本隆寺・・・彗光寺と号し日真上人の開創する法華宗門真流の本山です。日真上人は室町中期の人で中山大納言親通の子と言われ幼にして妙境寺日全の門に入り、長じて妙顕寺の日具上人を師として大いに研鑽に努めたが、長享2年(1685年)、師と意見を異にし本述勝劣を主張して妙顕寺より独立しました。初め、六角西洞院にあったが翌年、四条坊城に移って寺基を固めました。その著「三大部」、「法華論」の科註は後柏原天皇の叡感を蒙り、寺も次第に隆盛したが天文5年(1536年)の法難で叡山の焼き討ちに遭いました。一時、泉州堺に非難したが天文11年(1542年)、現在地に再建されました。現在の堂宇は享保、天明両度の大火に類焼し文化以後の建物ですが、本堂のみ、その災を免れたのは本堂に安置する鬼子母神の霊験によるものと言われました。これに因んで当寺を一に不焼寺と称します。千代野井・・・ここは元、尼寺五山の一であった景愛寺の旧跡と伝え、無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、井戸の水を汲まんとして桶の底が抜け、月影が水と共に消えた事から卒然と悟道に入ったと伝えます。夜泣止の松・・・当寺の日脩上人は幼児の頃に弟子入りしたが、毎夜夜泣をして住僧を困らせたので住僧がこの松の周囲を題目を唱えて廻るとたちまちに泣き止んだと伝えます。因んで松の木皮、松葉を枕の下に敷くと子供の夜泣が止むとの俗言があります。 |
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本隆寺 | 説明パネル | |
千代野井 | 鎮守社 | 祖師堂 |
夜泣止の松 | 本堂 | 雨宝院(うほういん/西陣聖天宮:にしじんしょうてんぐう) |
雨宝院(うほういん/西陣聖天宮:にしじんしょうてんぐう) ☆地図 | ||
平安時代の弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされ、当初、境内は広大で千本通五辻まであったが、応仁の乱により堂宇は焼失、荒廃。天正年間(1573〜92年)に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝える。観音堂には平安時代中期の作とされる木造千手観音菩薩像(重要文化財)が安置されている。境内には不動堂、稲荷堂、庚申堂など建ち並ぶ。また「染殿井」は涸れることなく湧いている。染色に使うとよく染まるとされ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていた井戸。現在は清めの手水に使われている。この「染殿井(そめどのい)」は西陣五名水の一つで、他は「千代井(ちよのい)」、「桜井(さくらい)」、「安居井(あぐい)」、「鹿子井(かのこい)」。本堂前の八重桜は「歓喜桜」で、御室の桜と同じ品種。その横で枝を張る松は、久邇宮朝彦親王が当院へ参拝された折、突然の雨にこの松の下で雨宿りされたことから、いつしか「時雨の松」と呼ばれるようになったと伝える。 |
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こま札 | 雨宝院西門 | 本隆寺の北塀に面した表門 |
染殿井 | 本堂 | 歓喜天 |
岩上神社(岩上祠) | ||
約2m近い赤味を帯びた巨岩で口碑によると初め、堀川二条付近にあったが、形が良いので後水尾天皇の御所へ移したところ、吠えたり、小僧に化けたりと怪奇現象が、しばしば起こったので真言宗の僧が貰い受け当地に安置し有乳山岩神寺と号して崇敬しました。それより怪奇な現象は止み、授乳祈願に霊験があるとして女性からの信仰を得ました。貞享、天明両度の大火に掛かって寺派は荒廃し僅かに小堂一宇のみでしたが、明治維新の際に廃寺となり今は巨岩だけが残っています。一説に陰陽石とも言われ道祖神信仰に結び付けられますが定かでありません。 |
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岩上神社(岩上祠) | 約2mの赤味を帯びた巨岩 | こま札 |
牛若丸ゆかりの首途(かどで)八幡宮 ☆地図 | ||
社壇が地表より一際高くなっているのは、古墳を利用したと考えられています。当社は内野八幡宮とも言い、祭神は応神天皇を祀ります。当地は古来、奥州の金売橘(吉)次の屋敷跡と伝え当社は邸内にあった鎮守社と伝えます。承安4年(1147年)3月、橘(吉)次が牛若丸を誘って奥州平泉へ発足したのは、ここからと伝え因んで社名を首途八幡宮と言います。社名の首途(かどで)とは「門出:かどで=出発」を意味し、旅立ちや旅行の安全の信仰を集めます。尚、桜井町と言うのは、室町時代の文明中、桜井基佐(もとすけ)が当地に屋敷を構えていたからで、基佐は水仙と称し宗祇法師に従って連歌や和歌に堪能で「基佐家集」を著しました。 |
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機織の音が聞こえる西陣の町並み | 牛若丸ゆかりの首途八幡宮 | |
解説 | 「源義経奥州首途之地」碑 | ・・・ |
神石 | ハトの手水 | ・・・ |
社壇は古墳を利用したと考えられている。 | 本殿 | 西陣碑 |
晴明神社 ☆地図 | ||
平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安倍晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。 |
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晴明神社 | 旧一条戻橋の親柱を利用して再現されているミニチュア版一条戻橋と晴明が自由に操った式神 | |
狛犬? | ・・・ | 千利休聚楽屋敷跡 |
解説 | 晴明桔梗紋形(五芒星、セーマン)の晴明井 | 境内 |
陰陽師・安部晴明像 | 厄除桃 | 晴明伝説@ |
晴明伝説A | 晴明伝説B | 晴明伝説C |
晴明伝説D | 晴明伝説E | 晴明伝説F |
晴明伝説G | 晴明伝説H | 晴明伝説I |
本殿 | 晴明グッズショップ | 一条戻橋 |
旧橋の基礎部分 | 説明 | 整備された堀川 |
晴明が式神を橋下に封じ込めた一条戻橋 | 一条戻橋の説明 | |
堀川第一橋はアーチ形のレトロチックな石造橋 | 京都市電(旧京電)・北野線遺構の中立売橋梁 | |
堀川左岸(東)を走っていた京都市電(旧京電)・北野線跡 | 世界文化遺産・元離宮二条城 | 新撰組屯所ゆかりの太鼓楼 |
世界文化遺産・西本願寺 | 西本願寺伝導院(旧真宗信徒生命保険/京都市指定文化財) | |
・・・ | ・・・ | 鴨川 |
西山の夕焼け(*゜▽゜)/ | アイスクリンげっと(^^♪ |
大手筋 |
Tourist.2011.01.24&02.07(M) |