洛南〜洛西花めぐり
待つ宵に ふけゆく鐘の 声きけば あかぬわかれの とりはものかは (新古今和歌集 巻第十三)小侍従
巨椋池干拓地・向島〜久御山東一口〜淀城跡〜長岡天満宮・八条ヶ池〜楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺) |
万葉の蓮見池・巨椋池(おぐらいけ) |
かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残とされます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。当時の蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園です。蓮園は大池神社の北側、東一口野菜洗場付近にあり、7〜8月の開花時期には巨椋池に自生していた品種や各地の蓮、200種以上が見事な花を咲かせます。 |
かつて伏見城外堀だった濠川 | ||
寺田屋で伏見奉行所の取り方に急襲された時に退避したと伝える坂本龍馬避難の材木小屋跡 | ロケでお馴染みの伏見百景・酒蔵 | |
新高瀬川 | 竹田街道 | 電気鉄道発祥の地碑 |
お龍さん?(≧▽≦)ぷっ 幕末維新のステージ・寺田屋 | 伏見らしい風情の柳と酒蔵 | |
十石舟乗船場 | 島の弁天様・長建寺 | 京阪・中書島駅 |
宇治川@観月橋 | 淀川維持区域標 | 巨椋池の太閤堤に造成された旧大和街道 |
巨椋(おぐら)池太閤堤は小倉堤とも言われた・・・ | 明治天皇御駐輦所製工場跡 | |
えぇ感じや〜(*^-^*) | かつて巨椋池だった干拓地・・・水田を吹き抜けてくる風が無茶涼しい〜ヾ(≧▽≦)ノ | |
巨椋池干拓地 | ||
巨椋(おぐら)の入り江として万葉の和歌にも詠まれ、その昔、宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込み、満々と水を湛えていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池は、魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれていました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。また魚貝類の宝庫で漁業や周辺住民の食糧供給源でもあったが、三川の洪水によって沿岸地域は毎年洪水の災禍に悩まされ続けていた。巨椋池を河川と分離し、遊水池の役目を終えることであった。困難な課題に取り組んだのが、太閤秀吉であった。巨椋池に流入していた宇治川を分離させて伏見城下の南に導き、伏見河港を整備するとともに、木津川の流路を西へ移し、淀城の水害を防いだ。これら改修時に河岸堤防を造成し、堤防上を街道とした。これらの堤防は「太閤堤」とよばれる。また、淀川本川左岸堤を「文禄堤」といわれている。秀吉の土木工事で大池を分離されたが水害は繰り返されていた。明治になっても水害が多発し、特に明治18年(1885年)に記録的な大洪水が起こった。これを契機に淀川改修への動きが本格化し、政府は明治29年〜同43年に淀川改修工事をヨーロッパの先進技術を導入して実施した。この工事では、宇治川と桂川が巨椋池に淀町付近で合流していたのを改修し、宇治川を淀町の南方に移し、八幡の北で木津川と合流させ、桂川を拡幅して大山崎の南で合流させた。これにより、淀の地名の起源となったという三川合流の水が淀んだ遊水池の性格がなくなり、巨椋池は単独の池となった。その後の昭和8年(1933年)に干拓工事が始まり昭和16年(1941年)に干拓工事完成と共に姿を消しました・・・干拓工事の完成から12年後の昭和28年(1953年)の大洪水で元の大池のような姿に戻りました。この大水害を教訓として上流にダムを建設する事に決まり昭和39年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成しました。干拓と埋め立ては違います。干拓とは、たくさんの水路を作りそこに水を集めていきます。その流れを一つにして大きな川の本流に送り出します。つまり干拓の基本は、排水です。今も巨椋池干拓地の中に何本もの排水幹線や古川、大内川が流れ巨椋池排水機場、久御山排水機場に集められポンプで宇治川に排水され地域を洪水から守っています。 |
||
巨椋池は、約800ha(周囲16km)の広大な大池で魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれました。 | ||
初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。 | ||
巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。 | ||
ジェジェ!「京都の自然200選」に選定されている前川(巨椋池排水幹線)の南側の桜並木が伐採されている!( ̄□||||!! | 新発見!田んぼのハス群生は蓮根作り? | |
巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」 | 当時の蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園 | |
7〜8月の開花時期には巨椋池に自生していた品種や各地の蓮、200種以上が見事な花を咲かせます。 | ||
ハス見物させていただいたお礼を言って・・・長岡天満宮、西山方面へ向かいます。。。しかし、むっちゃ暑い〜(;´д`)ゞあちぃ | ||
八条ケ池(長岡天満宮) ☆地図 | ||
寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島ツツジ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田公の寄進と伝えます。 |
||
残念ながら淀城跡の堀には淀姫というハスを見つけられませんでした。。。 | 長岡天満宮八条ヶ池 | |
八条ヶ池と水上橋 | 悟りの円窓? | ハス池 |
笠松地蔵尊祠 | 笠松地蔵尊出現之地碑 | 錦秋庭園 |
錦秋庭園 | 菅公歌碑 | |
長岡天満宮 ☆地図 | ||
一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。 |
||
長岡天満宮 | ・・・ | |
楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺) ☆地図 | ||
立願山(一に柳岩山に作る)楊谷寺と号する西山浄土宗光明寺派の寺です。昔、山中から清泉が湧き出し眼病治癒に応験があり、井水の傍に観音像を祀ったのが当寺の起こりとされます。平安末期の承保年間(1064年〜76年)、水観(一に水願)上人の開創と伝えますが、寺伝によると京都東山清水寺開創の延鎮僧都によって、大同元年(806年)に開山され、僧都はある夜、夢の中に観音菩薩が現れ京都西山へ行けば生身の観音菩薩を仰ぐ事が出来るとのお告げを受けて西山に踏み入りました。柳の生い茂る渓谷の巌上に夢告の観音菩薩(十一面千手千眼観世音菩薩)を発見し僧都は、その場所に堂宇を建て日夜給仕しましたが、清水寺の本尊を刻む為に帰洛したとされます。後世、荒廃していたが、元禄年間に再興したとされ建物は新しいです。毎月の17日の縁日のみ阪急バスが運行され参拝者で賑わいます。庭園は京都府指定名勝、本堂、庫裡、書院、山門は京都府登録文化財に指定されています。 |
||
楊谷寺(ようこくじ:柳谷観音寺) | 風神・雷神が奉られる山門(府登録文化財) | |
本堂(京都府登録文化財) | 阿弥陀堂 | |
あじさいの道に咲くアジサイが見ごろです!\(●⌒∇⌒●)/ | ||
境内俯瞰 | えぇなぁ〜(*^-^*) | |
奥ノ院 | ||
寺伝によると、江戸時代、112代・東山天皇の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が、度々、皇子を出産されましたが、不幸にも皆、幼くで亡くされ、楊谷寺の本尊に無事出産できますようにと祈願されました。そして、無事に出産されたのが113代・中御門天皇です。天皇9歳の時、両親が崩御され、その追善菩提の為に造られたのが奥の院の観音と伝えます。本堂は、大正元年(1942年)に建立されましたが、大正4年(1915年)に焼失、昭和5年(1930年)に再建されました。 |
||
奥の院 | 夫婦和合・円満の愛染堂(あいりきさん) | |
弘法大師ゆかりの独鈷水(おこうすい) | ||
開山・延鎮僧都が清水寺に帰られた後、弘法大師が当寺に参詣した時、堂傍のたまり水で猿の親が子猿の目を一生懸命洗っていました。そして17日目に子猿の目がパッチリ開いたのを見て、弘法大師はその不思議な水を眼病に悩む人々の為に霊験あらたかな霊水にしようと、日夜加持祈祷を施し独鈷(古代インドの武器、現在は仏具)で掘り広げられました。そして大師の法力による霊験水「独鈷水(おこうすい)」が湧き出ています。 |
||
独鈷水をペットボトル(2L)に頂戴しました。 | ・・・ | 弥勒谷十三石仏(江戸期) |
浄土谷入り口(柳谷と分岐点)に弥勒谷十三仏(不動明王、地蔵菩薩、大日如来、虚空蔵菩薩、弥勒菩薩、釈迦など十三石仏:江戸期)」 | ||
十三仏信仰は供養によって現世の安楽、極楽浄土を願うという民間の信仰で、 室町〜江戸時代に盛んだったと伝えます・・・ |
||
浄土谷(左)、R79:柳谷分岐点 | 高瀬川 | 風呂屋はないけど・・風呂屋町?!(≧▽≦)ぷっ |
Tourist.2013.7.08(M) |